日本企業はいつまで“日本”を隠し続けるつもりなのか



特亜と関係ないけど、ビックリした記事なので紹介します






アメリカ社会では空前の日本ブームが起きている。


日本どころか外国などとは無縁の地方都市にも日本食レストランが登場し、書店ではジャパニーズ・マンガの翻訳本が大きなスペースを占めている。メジャーリーグでの日本選手の活躍は当たり前になり、球宴MVP(最優秀選手)を獲得したイチローは球聖扱いだし、松坂の登板試合では全国スポーツ局ESPNの看板キャスターのジョン・ミラーは「こんばんは」という日本語の挨拶でアメリカ全土の視聴者に呼びかけたりもしている。そう言えば「ダイスケ・マツザカ」というローマ字ではやたらに長い綴りになるその名前も、アメリカの野球ファンの間では完全に定着した。

私たち在米日本人にとっては、そうした変化は生活実感としても大きい。一昔前であれば、12月7日のパールハーバー記念日には、子どもたちは学校で小さくなっていなくてはならなかったし、弁当としておにぎりを持って行ったら「黒くて気味が悪い」と言われたという話をよく聞いたものだ。そうしたムードはここへ来て雲散霧消している。日本文化に対しては、ほぼ無条件の好意的イメージが出来上がっていると言ってよいだろう。



「日本」を意識的に排除するイメージ戦略の不思議

にもかかわらず、“日本企業”は北米市場のマーケティングにおいて自分のアイデンティティー、すなわち「日本」を隠す習性が消えていない。

例えばカメラ業界。写真好きのアメリカ人にとって日本のカメラ業界の技術への信頼はほぼ無条件と言ってよいだろう。だが、キヤノンにしてもニコンにしても、イメージ戦略の中から「日本」を意識的に排除しているとしか思えないのだ。

キヤノンは北米市場でもマリア・シャラポワをイメージ・キャラクターとして使っている。そのシャラポワアメリカでは“外国人”であり、特に国民的英雄であるウィリアムス姉妹の“宿敵”だということはともかく、日本の技術力を代表するキヤノンと、ロシア人シャラポワのミスマッチ感は、そうした「日本隠し」の象徴とも言えるだろう。

そのキヤノンは8月20日に中級デジタル一眼レフのモデルチェンジを発表するとともに、俳優の渡辺謙をイメージキャラクターに選任したことを発表した。だが、キヤノンマーケティングによれば、あくまで国内市場向けの措置だという。知名度、好感度、そしてメッセージ性ということでも、正に北米向けにピッタリの人選だと思われるのだが、いまだにキヤノンUSAのウェブサイトはシャラポワのままだ。

この点ではライバルのニコンも大きなことは言えない。肝心の社名について、Nikonという綴りではどうしても“ナイコン”と発音されてしまう中、ナイコン」の名の下にブランド評価が定着してしまったのを放置しているのだ。それもある種の“日本隠し”だろう。

社名と言えば、音響機器のデノンの例もそうだ。長い間、日本市場では「デンオン」という名前で親しまれていたにもかかわらず、英語圏では Denonという綴りがどうしても「デノン」と発音されてしまうことから日本での正式な社名もデノンに変更してしまっている。デノンのケースでは、資本関係が多国籍化したという事情はあるが、ブランドとして日本色が薄まったのは事実だろう。


iPodの心臓部は日本製、しかし誰も知らない


音響機器に関して言えば、CDを中心とした第1次のデジタル化革命では価格破壊と付加価値破壊に突っ走った苦い経験があり、そしてMP3を中心とした第2次デジタル化革命では、iPodに市場を席巻されていまや衰退産業化している。

そのiPodの場合、現行製品の主要なストレージデバイス東芝日立製作所など日本製ハードディスク(HD)であり、コスト面でも重量・容積といった点でもHDが過半を占める。ハードとしてだけ見るならば、iPodとはHDをケースに入れて、それにチップとスイッチが埋め込まれただけのものだと言ってよいだろう。


そのHDとは、高密度化、低価格化、信頼性の確保といった技術、そして生産管理やレアメタル素材の調達などのマネジメントノウハウが結集された日本ハイテクの結晶だ。だが、世界中にあふれるiPodには「日本」のイメージはかけらもない。いくら主要部品を作っていても、いくらその業績寄与が大きくても、 HDだけでは日本企業は単なる部品のベンダーに過ぎないのである。1979年に「ウォークマン」を市場投入し「歩きながらヘッドホンで音楽を聴く」という文化メッセージを発信した「技術の日本」の面影はそこにはない。


そのソニーは、この8月20日iPodキラーを目指すとして、新しいコンセプトの音楽プレーヤー「Rolly」を発売すると予告、メッセージ性あふれるティザー広告を開始した。だが、ソニーによればあくまで国内向けの商品で、当面は海外展開の計画はないそうだ。北米を始めとする海外では、 iPodの寡占状態に対していきなり対抗するのは難しいかもしれないが、国内というニッチにとらわれすぎて、世界市場を見失わないようにしてもらいたいものだ。


iPodの覇権を許すにしても、その周辺のビジネスチャンスが消えたわけではない。iTunesなどのデジタル音楽ファイルに高ビットレート化の動きが出てきており、256kbps(キロビット/秒)の高音質を生かす周辺機器ビジネスには、新たなチャンスが到来している。アンプを中心にまだまだ競争力を持っている日本勢には、もう一踏ん張りしてほしいものだ。その際には“高品質”を“感性”のレベルまで高める技術力の象徴として、堂々と日本というブランドで勝負してもらいたい。


音響と並んで競争が激しいのはビジュアルだ。北米では、ブルーレイディスクHD DVDが何とか動き出し、フルHD(ハイディフィニション、高精細)規格のディスプレーが本格的な普及段階に入っている。その主役の1人として現時点まで大変な思いをして開発を続けてきた日本勢だが、ブランド戦略は成功していない。市場で存在感を出せているブランドは、ソニー、韓国サムスン、韓国LG電子の3社ぐらいで、ソニー以外の日本勢は「価格で勝負」のその他大勢になってしまっている。日立、東芝、シャープ、パイオニア、どれもこの分野でのブランドイメージは限りなく透明だ。

要するにこれだけの高技術、高額商品でありながらマーケティング上は限りなくコモディティー化していると言ってよいだろう。それも「技術の日本」というアイデンティティーを名乗らなかったツケではないだろうか


文化、メッセージ、美学、感性こそがこれからの付加価値に


もはや企業には国籍はなく、多国籍化、いや無国籍化した企業が競争力を持つ、そんな意見もある。トーマス・フリードマンが1990年代のベストセラー『レクサスとオリーブの木』で、まさにトヨタのサブブランドであるレクサスを取り上げたように、無国籍のコスモポリタン的ブランドがグローバリゼーションの象徴として世界に浸透しているのも事実だろう。私はそのことを否定はしない。

だが、あえて日本の製造業に対して「日本を名乗れ」と提言するのには2つの理由がある。

その第1は、これからの時代の付加価値は文化、メッセージ、美学、感性といった抽象的なものになっていくということだ。そうした文化レベルでの付加価値を作ることに成功したブランドには、限りない成功の可能性があるが、陳腐化したブランドは一気に競争力を失い製品は安く買い叩かれる、そんな恐ろしい時代でもある。

ディスプレーのビジネスがよい例だ。有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)やSED(表面電界ディスプレー)の実用化は不透明な部分が多いが、現行のプラズマ、LCD(液晶ディスプレー)でも、フルHDが主流になる中で、コントラストと応答性などの付加価値が差別化のポイントとなっている。だが、この領域での品質競争においては、感性や美学といった価値観を訴求し、顧客の感受性を掘り起こしていかなくては高価格は維持できないのではないだろうか。そのようなマーケティングにはメッセージ性と実名性が要求される。つまり、“日本隠し”は通用しないと見るべきだ。


それは、日本の自動車産業が成功したように、他国の製品とは明らかに感性や文化の領域で差別化した製品群を提案していくためには、自分たちの正体を堂々と名乗り、足元を見つめる中からメッセージを練り上げていくことが必要だからだ。ディスプレーのビジネスの場合は、「日本の色、日本の陰翳」といった文化メッセージをぶつけながら「アメリカの色彩、アメリカの光」を追いかけていく執念が問われている。

そうした高付加価値化に失敗し、業界全体で製品がコモディティー化してしまっては、デフレスパイラルの繰り返しになってしまう。日本を名乗ることに臆病な経営者ほど、デフレを恐れ、その結果として労働コストの削減に固執する、そんなマイナスの競争力をプラスに変えるためには、マーケットで堂々と日本を名乗るべきではないだろうか。


日本の技術力が限りなく透明なまま囲い込まれていく


第2の理由は、日本の技術力が、北米市場で「見える形」になっていない中、アメリカの官民にどんどん囲い込まれているという危険である。iPodでHDの供給元という地位に甘んじている構図と全く同じなのが、商用ジェット機のビジネスだ。

現在、世界での国際線主力機となっているボーイング777でも日本企業が多くの部分の分担をしているが、夢の高能率ジェットと言われるボーイング 787の開発に当たっては、軽量化と腐食防止のために炭素繊維が多用され、そのためもあって日本企業の分担率は35%と高い。日本の経済界もこれを好感しているが、そのことは一般のアメリカ社会では全く知られていない。

787のような商用機ビジネスなら知的財産権さえ守っていけば、リーズナブルな対価は戻ってくるだろう。だが、MD(ミサイル防衛構想)に象徴される軍事利用の場合はそうではない。

素材技術にしても、高精度な測定器にしても、いったんその技術がアメリカで軍事利用されると、厳格な機密保護の統制下に置かれて、民生品への転用は難しくなる。アメリカの国防総省は納入した分のカネは払ってくれるだろうが、それによって市場は著しく制約されてしまう。

軍需をデフレとは無縁のビジネスとして歓迎する向きもあるようだが、基本的にビジネスモデルとしては市場の競争にさらされない官需であり、マーケットは友好国に限られ、しかも機密のベールに包まれて社会常識やジャーナリズムのチェックが入らなくなる不健康な構造を持っている。



勇気を振り絞って「日本」を名乗れ

自身のアイデンティティーを名乗るには勇気が必要だ。文化に根ざした確かなメッセージを相手の市場を知り尽くしたうえで発信するには多大な労力がかかる。“日本隠し”とはそうした努力からの逃避にほかならない。

そんな消極姿勢の先には、付加価値を失ったハイテクのコモディティー化とデフレスパイラル、そして官民の下請けとして囲い込まれる屈辱しか待っていない。さらにその先には、日米ブロックの経済と外交における共倒れという危険すら待っている。

日米が良好な関係にあり、とりわけアメリカ社会における日本文化の好感度が増している今こそ、「日本」を堂々と名乗る戦略へと転換する最後のチャンスではないだろうか。



ソース・シリーズ:NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070821/132651/?P=1


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世界に進出する多くの日本企業が現地に溶け込むために無国籍化していくという傾向はわからなくはないし、「ことさら日本企業であるということ」をアピールする必要はないのかもしれないが、ただ逆に言うと「ことさら日本企業であること隠す」必要性もないように思うよね。

この記事で紹介されているキャノンやニコンデンオンといった企業の事例を見ると正直悲しく思えてくる。


その昔、「メード・イン・ジャパン」は粗悪品の代名詞というマイナスイメージを抱かれながらも、敢然と世界市場に進出してきた先人達(日本人ビジネスマン達)は「愛社精神」や「自分達の出世」だけのために頑張ってきたのか?そこには、多かれ少なかれ「日本(日本製品)の優秀さを世界に認めさせたい」という国を背負う意識や気概といったものがあったのではなかったのか!



「日本隠し」の背景は、上記記事の筆者が言うように、『文化に根ざした確かなメッセージを相手の市場を知り尽くしたうえで発信するには多大な労力がかかる。“日本隠し”とはそうした努力からの逃避』なのかもしれないし、もっと言えば「日本に対するイメージへの自信のなさ」があるように思う。


英BBCが行った国際世論調査では、国際情勢に最も肯定的な影響を与えている国として、日本がトップというニュースがあったように、特定の国(言わずと知れた特亜)を除く世界各国からは、日本や日本人は好意的なイメージを持たれている。


もっと自分の国や自分達に自信を持つべきなのではないかと思うが、日本人の特性(性格)では、「でしょ!そうなんですよ日本はいい国ですよ!日本人は信頼できますよ!」と素直にアピールしないよね。どっちかと言うと「いやいやワシらそれほどでもないッスよ…」的な謙遜をかます方が一般的なんだろうと思う。



こういう性格が日本企業の「日本隠し」の背景になっていたり、慰安婦南京事件など特亜が行う日本叩き運動を許す背景になっていると考えるのは飛躍が過ぎるのかな?


良いイメージを持ってもらっていることを鼻にかけた傲慢はイカンが、我々日本人はもう少し自信を持って日本に対する好印象を活かす戦術を官民ともに考えていくべきなのではないかと思う。






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