久間発言について感じること



広島・長崎への原爆投下容認ともとれる久間防衛相発言が大バッシングですが…(;´Д`)







久間防衛相も自身の発言について陳謝し、安部首相も厳重注意したものの久間発言の余波がなかなか収まりません。


問題の発言内容について、阿比留瑠比さんのブログに詳しく掲載されておりましたので、引用させていただきます。


以下、「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」より引用
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/211450/


《久間氏 ソ連、中国、北朝鮮社会主義陣営、こっちは西側陣営に与したわけだが、欧州はソ連軍のワルシャワ条約機構NATO軍が対立していた。そのときに吉田茂首相は日本はとにかく米国と組めばいいという方針で、自由主義市場原理主義を選択した。私は正しかったと思う。

これは話は脱線するが、日本が戦後、ドイツみたいに東西ベルリンみたいに仕切られないで済んだのは、ソ連が侵略しなかったことがある。日ソ不可侵条約(※正しくは日ソ中立条約)があるから侵攻するなんてあり得ないと考え、米国との仲介役まで頼んでいた。これはもう今にしてみれば、後になって後悔してみても遅いわけだから、その当時からソ連は参戦するという着々と準備をしていて、日本からの話を聞かせてくれという依頼に対して「適当に断っておけ」ぐらいで先延ばしをしていた。米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出てくる可能性がある。

ソ連が参戦したら、ドイツを占領してベルリンで割ったみたいになりかねないというようなことから、(米国は)日本が負けると分かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落とした。長崎に落とすことによって、本当だったら日本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の参戦を止めることが出来るというふうにやったんだが、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られてしまう。

本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無傷の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。

いずれにしても、そういう形で自由主義陣営に吉田さんの判断でくみすることになり、日米安保条約で日米は強く、また米国が日本の防衛を日本の自衛隊と一緒に守るということを進めることで…。戦後を振り返ってみると、それが我が国にとっては良かったと思う。》

また、久間氏が同日午後、講演での発言について、東京都内で記者団に語ったオンコメントは以下の通りです。

《久間氏 原爆を落とした、落とされたのは返す返すも残念だし、あんな悲劇が起こったというは取り返しの付かないことになったわけだが、しかしそういう歴史を振り返ってみたら、「あのときこうしていれば」と後悔してもしょうがないわけだし、とにかく今みれば米国の選択というのは米国からみればしょうがなかったんだろうと思うし、私は別に米国を恨んでいませんよとそういう意味で言ったわけだ。「しょうがない」という言葉が、米国の原爆を落とすのがしょうがなかったんだということで是認したように受け取られたことは非常に残念だ。


(引用ここまで)


上記発言の全文を読んで、世間では「原爆投下容認」にのみフォーカスが当てられていますが、前後の文脈を読めばある程度マトモなことも言っているように思います。だからと言ってこの久間氏の認識には個人的には同意できないですがね。。。

歴史にIfはつきものであり、原爆投下によってソ連の参戦及び日本の分断が防げたという米国側からみた仮説も信憑性はあるし、個人的な歴史分析・認識なら仕方ない面もあるのかもしれません。

ただ、日本の現職閣僚が講演会という誰が聞いているかわからない場面で発言するような内容ではないことは確かですね。(それも参院選挙前にやってしまうという認識の甘さ…)

たとえ、原爆投下が日本の早期降伏を目的としたもので、結果として分断を防ぐことになったとしてもその犠牲があの広島・長崎の惨状だったいうのは明らかに「勝者の理論」です。

「勝てば官軍」という言葉がありますが、勝者であるアメリカ人が理屈をこねくり回し自己を正当化するのはある程度仕方ないにしても、評論家や歴史学者ならいざしらず「なぜお前がアメリカの代弁してる」というのが私の正直な感想です。


◆あの原爆投下は本当に日本の早期降伏だけが目的だったのか?

◆なぜ、非戦闘員の日本国民の生命を大量に奪う必要があったのか?

◆2発も投下したのは開発した2種類の原爆を実験するためではなかったのか?

◆日本がアングロサクソンの国だったら果たして投下したんだろうか?(人種差別的視点は皆無だったのか?)


私は上記のような疑念を強く持っていますし、同じような考えの日本人も相当数いるものと思います。ただ、これは「負け犬の遠吠え」的考えだという側面は否定できず、結局は「戦争の勝利者」であり「戦後日本発展の最大のパートナー」であるアメリカに面と向かっては言えずに、久間氏の発言のように「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に」思い込ませて、発言を封印してしまっているような気がします。


だからこそ、今回の久間発言を聞いて「なぜお前が言う!」と何とも言えない妙な違和感を感じてしまうんでしょうね。


それから、野党は久間防衛相の罷免要求など執拗な内閣攻撃にこれを利用しているようですが(社民党の福島党首なんかは参院選の争点にすると言ってるようです…)、相変わらず言葉尻を捉えて攻撃するのが好きですなぁ。マスコミも含めこういうワンパターンかつ底の浅い手法にも「いい加減にしろや(#゚Д゚)ゴルァ!!」と感じますね。


ま、結果的にこの発言が取り上げられ注目されるのを一番苦々しく思ってるのはアメリカのような気がします。そういう意味では久間氏の思惑とは裏腹に(そもそもこの人に思惑なんか最初からあるようには思えませんが…)、援護射撃のつもりが逆効果になってるのが皮肉といえば皮肉ですね。





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